静まり返った医務室で、当然のようにアヤキは眼を開いた。
 見える白い天井と明るい照明。
 一目でここが医務室である事を理解したアヤキは寝ていた自分の身体を起こした。
 壁にある時計を見れば、もう深夜を回っている。
「あっちゃー……えらく寝てたんだなぁ」
 だがそのおかげで今までふわふわと浮いたような心地になっていた身体がしっかりとした感覚で伝わってくる。
 さすがにほとんど一ヶ月近くろくに寝ていなかったのはまずかったな、とアヤキは一人反省した。
 首を捻ると、医務室に置いてあるデスクにエリックが頭を預けるようにして眠りこけているのが見える。
「エリックにも迷惑かけちゃったなぁ」
 まだ少し身体がふらつくが、アヤキは腕に合った点滴の管を引き抜き、そこにガーゼをテーピングしてベッドから降りた。
 エリックを起こさないように静かにデスクに近寄ると、アヤキのものであるカルテが置かれている。
 身を乗り出して覗き見ると、少しクセのある筆跡でドイツ語が綴られていた。
「重度過労、主に睡眠不足……休養第一、ですか」
 二重線まで引っ張って休養第一と書いてあって、アヤキはクスッと笑ってしまう。
 そのままアヤキは伸びをすると、医務室の出口に向かって歩いた。
 元々徹夜をしたり睡眠不足になったりするのには慣れていて、これだけ一気に寝てしまうと目が覚めてしまってもうベッドに入る気にはならない。
 むしろ気持ちが昂ぶってきていて、医務室で静かになどしていられなかった。
 身体を動かしに道場にでも行こうかと思ったが、もう一度エリックを振り返って、アヤキはベッドまで戻った。
 自分に被せられていたシーツを手に取り、それをデスクで寝ているエリックを起こさないように注意しながらかけてやる。
 少しエリックは身じろぎをしたが起きる様子は無く、それをホッとして見届けたアヤキは静かに医務室から出た。


 道場に入る前には小さな脱衣所のような場所があり、そこにはロッカーとシャワー室へ繋がる扉がある。
 主に道場を使うのはアヤキとハヤトの二人なのでそれほどのスペースは取っていなかった。
 動きやすいゆったりとしたズボンと身体にあったタンクトップをロッカーにいつも常備しているので、アヤキはそれに着替えて道場へ入く。
 ガラガラと道場の扉を開くと、そこにはもう先客がいた。
「あれ? こんな時間にいるなんて珍しい。というか、珍しすぎ」
 ここを使うのはさっきも言った通りハヤトとアヤキしかいない。
 五十畳ほどの広さがある道場に居たのはアヤキと同じ格好をしたハヤトだ。
 一人で形をやっていたらしく、低く腰を落として右手を突き出した姿のハヤトも急に現れたアヤキに驚いた顔をする。
「お前……起きたのか? もう寝てなくていいのか」
「寝て、た方がいいってエリックは言うだろうけど。もう眼が覚めちゃったしな。身体動かしたくなってさ」
 ニッと笑って、アヤキが道場の中央まで歩いていく。
 ハヤトの横で一度深く深呼吸をしたアヤキは道場にある神棚に深々と一礼した。
 ゆっくりと腕を伸ばし、肩を回し、身体に今から動かすぞ、と確かめる。
 簡略した準備体操を終え、アヤキはハヤトに向き直った。
「一人だったらオレも形を一通りやろうと思ってたんだが……相手、してくれないか?」
 挑戦的な視線をアヤキが向け、ハヤトはその瞳に応えるように笑顔で頷く。
「望むところだ。今のアヤキなら俺でも勝てるかもな」
「おいおい。一応病み上がりの人間に手加減ナシ? そんな人間に勝ったって嬉しくないだろ」
「いいや、病み上がりだろうが何だろうが、それぐらいじゃないとアヤキには勝てないからな」
「ふぅん。ま、そうだろうな。ハヤトがオレに勝とうなんて、まだまだ、早い」
 ゆらり、アヤキの身体が戦闘体勢に入る。
 ハヤトもそれを見て握り拳を固く握り、意識を戦闘モードへ移行していった。
 深い深い静寂が道場に満ち、張り詰めた空気が二人の身体を包んでいく。
 お互いに視線を交錯させ、微塵も動かなかった二人は暫くの間、その張り詰めた空気を楽しんでいた。
 相手の力量を常日頃分かっている二人は相手の戦いのクセやどこからの攻撃に弱いかなども熟知している。
 それこそ長年一緒に居る師弟のように――――。
 張り詰めた空気は突如、ハヤトの繰り出した正拳突きによって切り裂かれた。
 風を切る音がして、ハヤトの拳がアヤキの顔へと跳ぶ。
 だがそれをゆっくりと流れる水のような動きで回避したアヤキは笑った顔のままハヤトの身体の内側へ潜り込み、肘でハヤトの身体の中央を穿つ。
「がっ……!」
 とてもさっきまで病み上がりがどうのこうの言っていた人間の攻撃とは思えないその重さに、ハヤトは眼を剥いて二、三歩下がる。
 ハッと気付いて視線をすぐに戻すと、アヤキの攻撃はまだ終わってはいなかった。
 続いて繰り出される回し蹴りの嵐をハヤトは鍛えられた反射神経と動体視力で何とか避ける。
 紙一重の場所をアヤキの容赦無い蹴りが駆け抜け、その猛攻は続く。
 本当にさっきまでベッドで寝ていたとは思えないその鋭さにハヤトは避けるのが精一杯だったが、形をやって身体を温めていただけあり、すぐに反応を返すようになった。
 アヤキの鋭い蹴りを両手で受け止めたハヤトは次は自分がとばかりにアヤキの内側へ入ろうと姿勢を低くする。
 だがそれを見越していたアヤキは小さく笑ってハヤトの頭に手を付いた。
「しまっ……」
 気付いた時にはもう遅い。
 ハヤトの頭に付いた手をバネにして、アヤキの身体がふわりと宙に浮く。
 人の頭を土台にして宙返りを軽々とやってのけたアヤキはそのままハヤトの後ろへと着地し、目の前の相手を失ってバランスを崩しているハヤトに問答無用の蹴りを出す。
 巨大な金槌で背中を思い切り叩かれたような衝撃にハヤトは言葉も出なかった。
 そのまま無様に畳の上に転がったハヤトにアヤキはもう終わりか、と溜息を漏らす。
「何だ何だ。反応悪くなったんじゃないのか、ハヤト」
「う、ぐ……お前の手加減の、無さの方が……いつもよりヒドい。俺じゃなかったら背骨が折れるぞあんなの……」
 咳き込むハヤトは畳の上であぐらを掻いて座り、不満げなアヤキの顔を見上げた。
 最後の蹴りの衝撃は本当にいつもよりも手加減が少なかった。
 大抵ならどんな攻撃でもすぐに体勢を立て直せるぐらいの余裕はあるはずなのに今のはたった一撃でこのザマだ。
 やっぱりまだアヤキはカロウというやつで、寝ていた方がいいんじゃないかとハヤトは思ったが、これだけ手加減の無いアヤキを相手に出来るのは初めてと言ってもいいかもしれない。
 もしかしたらこんな機会はもう無いかもしれないと思うと、ハヤトは素早く立ち上がった。
「お。まだやれる?」
「あったり前! これだけ手加減ナシなら俺も燃えて来る。――いくぞ、アヤキ!」
 背中に炎を背負ったハヤトが拳を握ってアヤキに肉薄する。
 素早く前に突き出した拳を、アヤキは流れる動きで牽制し、攻撃と防御の乱れ撃ちになった。
 二人は一歩も動かず、手と腕の動きだけで相手の領域を制そうと攻防を繰り返す。
 素人なら眼で追うだけでやっとの速さで、二人は真っ直ぐに張られた糸の上を歩くような戦いをしている。
 一度でも相手の攻撃を防げなければ途端に落ちる、そんな極限の極致。
 それでもアヤキは余裕の笑みを浮かべてハヤトに対峙していた。
 ハヤトもアヤキの余裕の程が分かっていた。だが、それがどこまで余裕なのかがわからない。実力の差があまりにも感じられてしまって、ハヤトは半ば意地になって攻撃を繰り返した。
 本気のアヤキだったらどれぐらいの実力があるのか、自分は本気のアヤキを相手にするだけの力も無いのか。
 ふと、何か懐かしい感覚に捕らわれてハヤトの気が一瞬そがれた。
「こんな時に何考えてん、だっ!」
 その一瞬の隙を感じ取ったアヤキがここぞとばかりに一撃を入れる。
 だがそれは正拳でも蹴りでもなく、普通の人間がやるよりも殺傷能力の高いデコピンだった。
「いっっってえぇぇっ!」
「戦いの時は常に戦いの事だけを考える。これ常識だろ。それともオレを相手に違う事考えるほど余裕だったのか?」
「……いや。ちょっと、懐かしい事思い出してさ」
 戦いの気が抜けてしまって畳にあぐらを掻くハヤトを見たアヤキは同じ様にハヤトの前に座る。
 デコピンをされて赤くなった額を指先で摩りながら、ハヤトはふいに頭に出た光景を思い出そうと記憶を遡り始める。
「お前に会った時の事思い出したんだ。ほら、小学校一年の時」
「ああ。初めて会った時の事か?」
 ハヤトの言葉にアヤキもその当時の事を思い出した。
 元々天才的に記憶力が良いアヤキはその時の事をまるで昨日の事のように思い出せる。
 それに、アヤキにとってもこの思い出は大事な思い出でもあった。
「忘れようにも忘れられないよな。ハヤトってば今よりももっと弱っちくて。身体も細かったし、クラスの男共にいじめられてビービー泣いてるだけだったもんな」
「弱っちいはないだろ! それに今より、って何だ。少しは俺だって強くなったぞ」
 小さい頃、まだアヤキと出会った時のハヤトはクラスでいじめられている弱虫の男の子だった。数人の男子に容赦ない暴力を受け、泣きながらそれに耐えるハヤト。そこへ違うクラスだったアヤキが助けに入ったのだ。
「……けど、確かにあの時の俺は弱かったもんなぁ。やり返そうって気も起きなかったし、早くこの状態が終わる事だけを考えてた。今だったら絶対そんなのないけどな。しかし、そう思うとアヤキは昔から全然変わらないな? あの時のアヤキの登場の仕方も面白かったし」
 その時の事を思い出したハヤトが小さく噴き出すのを見て、アヤキが首を捻る。
「そうかぁ? ただ教室の扉開けて、跳び蹴り食らわしただけだろ」
「それが面白かったんだよ。『いじめなんてみっともないコトすんじゃねぇっ!』ってめちゃくちゃ怒ってて。あの時アヤキとは違うクラスだったのに、わざわざコイツ他のクラスまで来て何してんだ、って俺は思ってた」
「だって……気に食わなかったんだもん。しょうがないだろ」
 口を尖らせて唸るアヤキにハヤトは笑みが零れた。
 思えば、その時からアヤキは絶対に敵わないヒーローとして焼きついていたのかもしれない。同じ歳なのに圧倒的な強さを持つアヤキが苛めっ子達を倒した時の勇ましい後姿は今でも鮮明に思い出せる。
 ――カッコ良いと思った。
 幼いながらに感じた強い憧れ、そしてそれを越える焦燥感。
 いじめが終わる時をただ身を小さくして待っていただけのハヤトはその時変わったのだ。
 自分から変わらなくてはいけないのだと。
 その時からハヤトはアヤキを追いかけ始め、半ば強引にアヤキに弟子入りしたのである。
 自分から強くなりたいと思うハヤトをアヤキも気に入り、それからというものアヤキとハヤトは仲の良い武術師弟になったのだ。
「アヤキに会えて本当に良かったと思ってる。じゃなきゃ、今の俺は居ない」
 普段そんな言葉を聞いたら何をくすぐったい台詞を、とこっちが恥ずかしくなるのだが、不思議とハヤトがそんな言葉を言っても恥ずかしくは感じない。
 それは言ってるハヤトが恥ずかしいと欠片も思っていないからだとアヤキは知っていた。
 だからアヤキも言われて素直にハヤトの瞳を見る事が出来る。
「オレも、ハヤトに会えて良かったと思ってる。レンもエリックもシルフの皆、オレの大事な宝物だ」
 そう言って、アヤキは今までで一番輝くような笑顔で可愛く微笑んだ。
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